先日、ヒヨドリの死骸が勝手口の前にありました。以前もヒメネズミの死骸が玄関の前にあったけど、これは猫が獲ったものです。
「はい、これ、アタシが獲ったの」という意味で、成果を人の目に付くところに置く習性が猫にあると聞きました。
……まあ、庭の隅にひっそりある死骸を見つけるのもショックだろうから、目につくところにあってもいいんだけどさ……。獲ってプレゼントしてくれても、別に私たちはヒヨドリもネズミも、食べないんだよね。
墓代わりに庭の隅に深く穴を掘ってヒヨドリを埋める時、可哀想でいたましい気持ちになったり、本能とはいえ「猫も食べないなら見逃しゃいいのに」と、ちょっと複雑でした。
猫、そういうことしなくていい。ほんと、もう、気持ちだけもらっとく。
愛犬、柴犬の太郎が老衰で死んでからもう随分とたちます。そろそろ20年に近いんじゃないかな。太郎以来、生き物を飼っていません。
庭に来る野鳥が食べるよう、米くずやミカンだの半分に切って庭石に置いたりとか、そういうことをしているくらいです。(家の中でヤモリとか見かけてもそのまま「家の虫、適当に食べて」と放っておくとかもやってますが……)
元々動物は好きなので犬か猫か飼いたいなと思うけれど、充分に世話が出来なかったらそのペットに悪いと思うのでなかなか実現しないんです。
ここ10年は特に、家族の体調が突然悪化して病院に駆け込むなどという事もあったりして、もしかするとペットにまで手が回らなくなることがあるかもしれないと常に考えています。
若い内に死なせてしまった生き物たちの事は今思い出しても心が傷みます。
もっと自分に飼う上での知識があったら。
一緒にいるのが当たり前に思っていたので、もっと体調や様子の変化に気をつけていたらと。
不注意だったことをとても後悔しても遅いのだと思いました。
そのせいか、老衰で死んだ動物の場合は、死んだ時は悲しくて大泣きしましたが、今思い出すのは、一緒にいて楽しかった思い出ばかりです。
喪失感はありましたが、その思い出がずっと残っていて、一緒にいてくれたことへの感謝の気持ちが今も消えることはありません。
多分、皆、そうなんじゃないかなと思っています。
だから、これを観て泣けてくるのじゃないかな、と思った動画があります。
「はじめてのともだちに絵をつけてみた【ヒャダイン】」
もとはニコニコ動画で観たのですが、アカウントのない方用にYouTube版を紹介します。
これが私がニコ動で初めて泣いた動画です。まさかニコ動で泣くとは思ってませんでした。
ゲームの「Dr.マリオ」(私、GAMEBOYでものすごくやりこみました)のBGMに歌詞を付けた替え歌の一種なんです。それに別の方が暖かな絵を付けて、という流れで名作になりました。
自分の犬が柴だったこともあって観てたまらない懐かしさがこみ上げたのですが、YouTubeで「My First Friend (English Subs)」の英語表題を付けて公開している動画には、海外のユーザー達も「涙があふれる」、「これを見終わってうちの○○(愛犬、愛猫)を抱きしめたよ」というレスポンスを返していました。
思いは皆同じだと思いました。
これを観て自分の愛犬たちを思い出して泣くのは、個人の、感情的なもの。一つの感傷かとも思うのです。
ですが、沢山の人たちが共感して、その思いを分かち合うのは、心のつながる感動なのかなと、ふと思いました。